小田原の歴史早わかり

  • 1. 先史時代

    • 小田原の中里遺跡は、縄文人と渡来人が共存共栄した数少ない遺跡です。他の地域と違い、点々と存在した渡来人のみの小規模の集落ではなく、縄文人と共存した大集落でした。また、縄文文化と渡来文化の境界の東端であったとも考えられ、日本の文化人類学や考古学において貴重な地域です。古代においては、相模国足下郡(あしがらのしものこおり)の地であり、古名を「こゆるぎ」といい、「小由留木」「淘陵」などの字が宛てられていました。市内千代にあった千代廃寺は相模国国府とも足柄下郡郡衙の所在地といわれます。

    2.中世

    • 平安時代末期から鎌倉時代にかけて、平将門を討伐したことで有名な藤原秀郷の子孫・佐伯経範が長元3年(1030年)頃に秦野に移り住んで波多野氏を名乗ります。後に支流として、松田氏・渋沢氏・河村氏・栢山氏・大友氏・沼田氏などが出て、相模西北部にその一族の勢力を伸ばします。現在の秦野市内、足柄上郡松田町・山北町、南足柄市、小田原市の一部で、波多野城は一族の居館でした。その波多野城のあった田原の支城として「小田原」が設置されたと言う説があります。平安時代の末期治承4年(1180年)に、蛭ヶ小島(伊豆国)で挙兵した源頼朝と平家方の大庭景親らで、石橋山の戦いが行われました。

    3.戦国時代

    • 戦国時代には伊勢平氏流を称する北条早雲が小田原城を奪取し、その子孫である後北条氏は小田原城を中心に関東一円に台頭します。鎌倉府足利氏、関東管領上杉氏、常陸国守護佐竹氏、下野国国司宇都宮氏、その他関東八屋形に列せられた諸氏による当時の関東の統治体制を転覆します。なお、下野国守護小山氏は後北条氏により滅亡に追い込まれ、北条氏が治めた城下町は戦国時代で最も大きく発展したといわれる。
  • 4.近世

    • 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐による後北条氏の滅亡と徳川家康の江戸入府によって、小田原は歴史の表舞台から姿を消します。家康が関東を治めるようになった後は、部下の大久保氏が小田原に入ります。

    5.江戸時代

    • 江戸時代には東国の要衝として、譜代大名を領主とする小田原藩が置かれ、小田原はその城下町となります。また、貞享3年(1686年)以降は代々大久保氏の城下町となりました。城下町・小田原は東海道の沿線であり、小田原宿は箱根の山越えを控えた宿場として東海道五十三次中最大の規模を誇りました。また、小田原郊外の栢山(かやま)は、農政家・二宮尊徳の生地として有名でした。

    6.近世

    • 明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県によって、小田原藩は小田原県となり、同年末の県合併により、相模川以西の旧相模国と旧伊豆国全域を管轄区域とする足柄県が設置され、県庁が小田原に置かれました。しかし1876年(明治9年)に足柄県は分割され、小田原を含む相模国部分は神奈川県に、伊豆国部分は静岡県となり、小田原は県庁所在地ではなくなります。神奈川県となった後に設置された支庁も、間もなく廃止されましたが、1878年(明治11年)の郡区町村編制法によって足柄下郡が編制されると、足柄下郡の郡役所が小田原に置かれました。
      東海道本線は当初、小田原-熱海-沼津間の急鋭地帯を避けるために現在の御殿場線経路で敷設されました。そしてその後、小田原経由の路線として、小田原馬車鉄道という馬車鉄道が1888年(明治21年)に開通したのを皮切りに、熱海線(現在の東海道本線)・小田原急行鉄道(現在の小田急電鉄)なども開通しました。
      1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では、直下が震源地だったために激しい被害を受けました。1934年(昭和9年)の丹那トンネル開通で、東海道本線はやっと小田原市街地を通るようになった。1945年(昭和20年)8月15日、熊谷市と並び、太平洋戦争最後の空襲を受けます。戦後、1951年11月28日に「小田原大火」が発生し市街地300戸あまりを全焼。1962年(昭和37年)新小田原市民歌を制定しました。1964年(昭和39年)には東海道新幹線も開通し、東京・横浜への所要時間も大きく短縮されます。1990年(平成4年)市制50周年を迎えました。
      2020年(令和2年)に市制80周年を迎えます。

TSUNAGARU-MAP