はじめに
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小田原を楽しむポイント
小田原のシンボルのひとつ「小田原城」は再建されたものです。明治維新の際には、城主を失い荒廃し、その後関東大震災で城壁は崩落しました。その関東大震災は、誕生したばかりの小田原駅も破壊し、街の商店や民家に大打撃を与えました。太平洋戦争の際は、アメリカ軍により最後の爆撃を受け、街の多くが被災し焼けました。戦後は主要な地域産業のかまぼこの原材料の確保ができず、産業も地域商店も苦境に陥りました。今、箱根のおひざ元としても、シンボルの小田原城をいただき、城下町宿場町として賑わう小田原の街は、実は地元の人たちの血と汗、努力と挑戦によって今に至った「復興の街」なのです。そうした足跡に触れていただくと、より小田原を楽しんでいただけます。
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Webサイト概要
主宰者:株式会社バリューリソース・デザイン 協力:株式会社ポスト広告
タイムトラベル小田原
初めて小田原を訪れる方のための案内サイトですが、城・老舗・伝統・城下町・宿場町・武将・忍者など、歴史に厚みのある小田原だからこその情報に触れられるサイトです。駅の利用案内から定番の名所を中心に紹介していますが、ぜひ訪れてほしいという名所なども紹介。食事も歴史や伝統を感じられる所を案内しました。例えば小田原城は、戦国時代は総延長9kmだったが、現在、総構(大外郭)があった場所はどのようになっているのか?その当時の城内はどうなっていて何があるのか?等、ポイントの情報や過去の画像などを見ながらお城見学を楽しむ、という主旨で作られています。トップページ画像について
・左上、右下:小田原市観光協会所蔵
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マップについて
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江戸前期 1644年頃
相模国小田原城絵図
※国立公文書館所蔵 -
江戸後期 1810年頃
大日本沿海輿地全図 第99図(著者:伊能忠敬)
※国立国会図書館所蔵 -
江戸末期 1860年頃
小田原城絵図「文久図」
※小田原城天守閣所蔵 -
明治中期 1882年頃
迅速測図
※出典: 農研機構(http://www.finds.jp) -
大正初期 1916年頃(大正5年)
国土地理院 旧版地図(小田原・國府津・秦野・山北・關本・箱根)
※国土地理院所蔵 -
昭和中期 1954年頃(昭和29年)
国土地理院 旧版地図(小田原南部・國府津・秦野・山北・關本・箱根)
※国土地理院所蔵 -
昭和後期 1984年頃(昭和59年)
国土地理院 旧版地図(小田原南部・北部・秦野・山北・關本・箱根)
※国土地理院所蔵 -
現代地図
国土地理院、オープンストリートマップ(OSM)
※国土地理院 旧版地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複、 第680号)
中世以降の小田原の歴史について
1030年(長元3年)頃
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、平将門を討伐したことで有名な藤原秀郷の子孫・佐伯経範が長元3年(1030年)頃に秦野に移り住んで波多野氏を名乗り、後に支流として、松田氏・渋沢氏・河村氏・栢山氏・大友氏・沼田氏などが出て、相模西北部にその一族の勢力を伸ばしました。現在の秦野市内、足柄上郡松田町・山北町、南足柄市、小田原市の一部です。
1180年(治承4年)
平安時代の末期治承4年(1180年)に、蛭ヶ小島(伊豆国)で挙兵した源頼朝と平家方の大庭景親らとの、石橋山の戦いが行われました。
戦国時代
- 戦国時代には伊勢平氏流を称する北条早雲が小田原城を奪取し、その子孫である後北条氏は小田原城を中心に関東一円に台頭します。その北条五代が治めた小田原・城下町は戦国時代で最も大きく発展したといわれます。
- 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐による後北条氏の滅亡と徳川家康の江戸入府によって、小田原は歴史の表舞台から姿を消すことになります。そして家康が関東を治めるようになった後は、部下の大久保氏が小田原に入ります。
江戸時代
江戸時代には東国の要衝として、譜代大名を領主とする小田原藩が置かれ、小田原はその城下町となります。
1686年(貞享3年)以降は代々大久保氏の城下町となります。城下町・小田原は東海道の沿線であり、小田原宿は箱根の山越えを控えた宿場として東海道五十三次中最大の規模を誇りました。また小田原郊外の栢山に、農政家、思想家・二宮尊徳が現れ、活躍します。明治時代以降
- 明治4年の廃藩置県によって、小田原藩は小田原県となります。同年末の県合併により、相模川以西の旧相模国と旧伊豆国全域を管轄区域とする足柄県が設置され、県庁が小田原に置かれます。
- 1876年(明治9年)に足柄県は分割され、小田原を含む相模国部分は神奈川県に、伊豆国部分は静岡県となり、1878年(明治11年)の郡区町村編制法によって足柄下郡が編制されると、足柄下郡の郡役所が小田原に置かれることになります。
- 東海道本線は当初、小田原?熱海?沼津間の急鋭地帯を避けるために現在の御殿場線経路で敷設された。その後、小田原経由の路線として、小田原馬車鉄道という馬車鉄道が1888年(明治21年)に開通したのを皮切りに、熱海線(現在の東海道本線)・小田原急行鉄道(現在の小田急電鉄)なども開通した。
- 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では、震源地だったために激しい被害を受けました。
- 1934年(昭和9年)の丹那トンネル開通で、東海道本線はやっと小田原市街地を通るようになります。
- 1945年(昭和20年)8月15日、熊谷市と並び、太平洋戦争最後の空襲を受ける。
- 1960年(昭和35年)には、関東大震災で崩壊した天守閣の再建工事も完成し、小田原のシンボルが復活します。
- 1964年(昭和39年)には東海道新幹線開通。
- 2020年(令和2年)に市制80周年を迎えます。
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