★2021修正29 二宮金次郎、尊徳その後

神奈川県 小田原プラットフォーム/β版

はじめにお読みください

  • このラボサイトの主旨

    「二宮尊徳」という人物について、世代やまた個人によってその知識や情報量、認識に大きな隔たりがあると思います。特に個人個人がどのように「二宮尊徳」を学校等で教えられたかという「教育」の影響は強いはずです。このラボサイトでは、二宮尊徳が生きた時代と亡くなった以降の後継者たちの時代を振り返り、現在と将来にその教えを活かす方向性を考えてみます。

    Webサイト閲覧上の留意点

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    歴史的背景を持つ地点もしくは過去に起こった事柄、遺跡など
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    未来の出来事の記述や未来に完成する施設など
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    ポイントしている地図は、ポイント地点の出来事の時期やその由来になるべく近い時代地図を選択しています。また、古い地図の描かれた範囲外がポイント地点の場合は、現代地図やその他の時代地図を選択している場合があります。

    Webサイト概要

    主宰者:竹腰稔

    二宮金次郎、尊徳その後
    私の世代は、団塊の世代の後の世代です。戦後10年ほどたって誕生し、高度経済成長に入るときからもの心がついたという世代で、現在はいよいよシルバー本格突入です。
    そんな折、小田原市が主催する「おだわら市民学校」の「二宮尊徳を継承する」セミナーの案内にふれ、申し込みました。実は、二宮尊徳生家の近所で暮らしきましたが、何となく(気持ち的に)距離がありました。そして10年以上前、出張の帰りに静岡の掛川に立ち寄り、二宮尊徳(報徳)を祀る報徳社の存在を知りました。生家の小田原から遠く離れた場所で、二宮尊徳に触れるとは思いもよりませんでしたが、そのときに芽生えた興味と関心が、やっと再接近する機会を得たということです。全16回のセミナーは1回2時間半余りとボリュームがあり、かつフィールドワークも伴う充実の内容です。ただし、私は欠席が多く、結局修了証をもらうことはできませんでしたが、大変学ぶところの多いものでした。修了証がいただけない私が、「尊徳ラボサイト」を開設するというのも、何かおこがましいわけですが、セミナーのそれなりの成果としてつくりました。
    文中、主人公の名前を「二宮金次郎」を使ったり、「二宮尊徳」を使ったりしていますが、本名は「二宮金治郎」だということです。尊徳も、「そんとく」ではなく「たかのり」ということです。それは親しみの響きをもったり、尊崇の対象となったりと、金治郎のイメージの幅の振れと関係しているかも知れません。

    TSUNAGARU-MAP
    二宮金次郎、尊徳その後
    https://www.tsunagaru-map.com/sontoku/

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  • マップについて

    本ラボ・サイトでは、下記地図の全部または一部を使用しています。

    • 江戸後期 1810年頃

      大日本沿海輿地全図 第99図(著者:伊能忠敬)
      ※国立国会図書館所蔵
    • 江戸末期 1860年頃

      小田原城絵図「文久図」
      ※小田原城天守閣所蔵
    • 明治中期 1882年頃

      迅速測図
      ※出典: 農研機構(http://www.finds.jp)
    • 大正初期 1916年頃(大正5年)

      国土地理院 旧版地図(小田原・國府津・秦野・山北・關本・箱根)
      ※国土地理院所蔵
    • 昭和中期 1954年頃(昭和29年)

      国土地理院 旧版地図(小田原南部・國府津・秦野・山北・關本・箱根)
      ※国土地理院所蔵
    • 昭和後期 1984年頃(昭和59年)

      国土地理院 旧版地図(小田原南部・北部・秦野・山北・關本・箱根)
      ※国土地理院所蔵
    • 大正後期 1920年頃

      国土地理院 旧版地図
      ※国土地理院所蔵
    • 昭和中期 1955年頃

      国土地理院 旧版地図
      ※国土地理院所蔵
    • 現代地図

      国土地理院、オープンストリートマップ(OSM)

      ※本ラボ・サイトでは、上記地図の全部または一部を使用しています。
      ※使用している旧版地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万分1迅速図及び1万分1 地形図を複製したものである。
      (承認番号 平27情複、 第457号)

    二宮尊徳が生きた時代

    18世紀になり、徳川吉宗は幕府権力の再強化と財政再建(享保の改革)を推し進めます。しかしその後も体制維持と財政再建の取り組み(寛政の改革や天保の改革等)は行なわれますが、成功にはほど遠いものでした。 この頃に町人を中心とする化政文化が花開きます。一方では、社会各層での貧富の拡大と身分制の流動化を起こしながら、幕藩体制はいよいよ動揺していきます。
    その後も、黒船来航と日米和親条約締結による開国を契機として、不平等な外国との条約を締結してしまい、幕府の威信は低下します。反対に朝廷の権威が増大することになり、幕府は大政奉還により権力の温存を図りますが、倒幕派の薩摩藩、長州藩、土佐藩らとの内戦(戊辰戦争)に敗北後、政権は瓦解します。 江戸時代は文化の担い手が庶民にまで拡がり、歌舞伎、俳諧、浮世絵、お陰参りなどが盛んになったほか、寺子屋や藩校で広く教育が行われます。
    以上の時代背景文は、「江戸東京アートガイド・ラボ」で書いたものです。江戸東京は、文化・文政の時代に様々な文化が芽生え、都市は繁栄の極みにあるように思えます。
    一方、同じ時期に小田原藩主から分家筋の現在の栃木県真岡市桜町の財政再建を命じられる二宮尊徳ですが、天明、天保の大飢饉の中で、地方のほとんどが都市部への人口流出によって、生産力を奪われ、荒廃していきます。

    二宮尊徳の後継者たちの時代

    明治維新を通した一連の社会改革は、廃藩置県、四民平等、地租改正など尊徳が編み出した地域再建のすべての基盤を変えてしまいます。そして西欧列強の脅威にさらされる中、殖産振興、富国強兵の道に邁進していきます。そしてその選択の先には、日清・日露戦争、さらに第一次世界大戦、太平洋戦争が待ち受けていました。
    地域の再建から、国の存亡危機へと、ステージを大きく変え、「二宮尊徳」は引き回されます。そして太平洋戦争敗戦後も、尊徳は活かされていきます。

    未来について、尊徳SDGs

    マキを背負って、本を読みながら働く姿は、金次郎の独占イメージです。しかししっかり本を理解するなら、マキを一旦置いて、道端にしゃがんで読むのが最良です。後継者たちが生前の金次郎について、その思想を強調するために、「盛った」と言われます。
    「勤労」「至誠」「分度」「推譲」と、再建の原資化の「報徳金」という尊徳のキーワードの中で、子供たちに伝えやすいのは「勤労」でしょう。そして「勤労」や「至誠」の先には、成功や成長や発展が約束されていると…。 でも私はそれが良いとは思いません。 尊徳の再建策は、「勤労」「至誠」「分度」「推譲」と「報徳金」がセットです。 このセットがしっかり揃わないと、地域の再建はかないません。実際、報徳が生きた江戸後期でも、桜町の再建が評判を呼び各地で引っ張りだこになりました。しかし、その大半は頓挫したり、失敗に終わっています。明治以降も国の発展や成長のために、尊徳はその都度駆り出されましたが、不幸な結果を招きました。 「勤労」「至誠」「分度」「推譲」がバランスよくあって、利益が利益を生み出すという仕組みは、経済成長だけを追求するのではない、「持続可能な開発」の基本的要件ではないでしょうか。
    地球環境が危機を迎えている現在に、いまだ一国の成長や金融資本主義偏重の発展を唱えているのは非現実的です。 「分度」「推譲」を子供たちにも分かりやすく伝え、持続可能な開発をする原資の「報徳金」を明らかにすることが、未来をつくります。
    尊徳SDGsです。

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