★2021修正22 北方四島・暮らしのアルバム

学校でツナガルマップ

はじめに

  • このラボサイトの主旨

    恥ずかしい話ですが、北方四島の島名は知っていましたが、その位置関係や大きさの比較については分かっていませんでした。地図を見ても、大抵は、視点は本州に向かって、沖縄や北海道のさらに果ての北方四島をじっくり見ることは無かったのです。八重山諸島という名前も天気予報などで耳にしてもそれがどこなのか?分からないのと同じように、北方四島って?学校では、きちんと教わった記憶もないし、成人して以降も関心が生まれなかったというのは正直なところです。しかし、沖縄・八重山諸島さらに尖閣諸島も、そして北方四島も、地政学的に安全保障や希少資源の宝庫としてその価値が叫ばれています。でもね、そうした声は、やはり日本地図を見る時の中央視点と大差が無いように思うのです。「中央」のために「端」が存在するような考えをもった過去の為政者たちの犠牲を繰り返さないよう、住人にとってはどこで暮らそうがそこが「中央」だということを、戦前の北方四島に暮らしから感じるのです。

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    歴史的背景を持つ地点もしくは過去に起こった事柄、遺跡など
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    未来の出来事の記述や未来に完成する施設など
    地点が広範なものや道路・鉄道など距離のあるもの、また曖昧な地点

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    ポイントしている地図は、ポイント地点の出来事の時期やその由来になるべく近い時代地図を選択しています。また、古い地図の描かれた範囲外がポイント地点の場合は、現代地図やその他の時代地図を選択している場合があります。

    Webサイト概要

    主宰者:株式会社バリューリソース・デザイン

    北方四島・暮らしのアルバム
    写真の提供は、公益社団法人 千島歯舞諸島居住者連盟によります。 この団体は、 「ソ連の不法占拠によって日本固有の領土である北方領土から強制的に退去させられた元島民とその後継者で組織する全国唯一の公益法人です。 現在は、北方領土の早期返還、元居住者等に対する援護の充実を図ることにより、北方領土問題及び関連する諸問題の解決の促進に寄与することを目的として活動しています。」とあります。 元島民の皆さんなどが所有されて、当連盟が所蔵管理、整理をした貴重な写真のほんの一部を利用させていただきました。枚数が多かったにもかかわらず、データベースから検索いただき、それをCD-ROMに焼き付けをしていただき、送付いただきました。心より感謝いたします。 それぞれの写真をプロットした地図は、国土地理院所蔵の大正時代後期(1920年代前半)に測量した旧版地図をベースにした、「測量年1991年(平成3年)」の旧版地図に行っています。【マップについて】では、当該地図を大正後期測量とし、記述しました。 戦後、ソ連が実効支配した以降、日本は実地測量できません。しかしながら、その大正期の測量をベースにして、地名の修正などし、「測量年1991年(平成3年)」としたと思われます。 日本政府は、日本固有の領土としているため、その証のひとつに、領土の測量を平成の時代にもしたのでしょう。 戦前の暮らしが繰り広げられた様子を大正時代後期に測量した地図にプロットしました。 また、江戸後期の「官板実測日本地図(三)蝦夷諸島」は、伊能忠敬が作製した「大日本沿海輿地全図」(文政4年(1821))の小図をもとに,幕末に江戸幕府の開成所から刊行されたものと同じ版木を使って,明治3年(1870)南校(現在の東京大学)から刊行されたものと思われます。解像度が低いので見づらいと思いますが参考に閲覧ください。

    北方四島・暮らしのアルバム
    https://www.tsunagaru-map.com/h4-album/

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  • マップについて

    本ラボ・サイトでは、下記地図の全部または一部を使用しています。

    • 1867年頃 江戸後期

      官板実測日本地図(三)蝦夷諸島
      ※国立公文書館所蔵
    • 1922年頃 大正後期

      国土地理院 旧版地図
      ※国土地理院所蔵
    • 現代地図

      国土地理院、オープンストリートマップ(OSM)

      ※本ラボ・サイトでは、上記地図の全部または一部を使用しています。
      ※国土地理院 旧版地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の○万分1地形図及び○万○千分1地形図を複製したものである。
      (承認番号 平○○情複、 第○○○○号)

    北方四島の歴史背景など

    留意

    以下の年表は北海道標津町のホームページを参考にしています。また、この地域を構成する千島、北方四島、クリル諸島の一部、北海道の先住民はアイヌ民族です。

    1855年(安政元年)

    • 日露通好条約締結

      択捉島とウルップ島との間を国境とし、樺太には境界を設けないという内容。
      ※日露通好条約は、締結当時は日魯和親条約(日露和親条約)とも呼ばれていました。伊豆の下田で交渉は行われ、日本側は大目付格筒井政憲と勘定奉行川路聖謨、ロシア側全権は提督プチャーチンで締結されました。

    1875年(明治8年)

    • 樺太千島交換条約

      クリル諸島が日本領となる。
      ※先の日露和親条約において千島列島(クリル列島)の択捉島とウルップ島との間に定められたが、樺太については国境を定めることができず、日露混住の地とされたことで、樺太では日本人、ロシア人、アイヌ民族が混住し、混乱が起こりました。そのため、日本側の榎本武揚とロシア外相等との間で交渉が進められ、その結果、樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた樺太・千島交換条約を締結することになったものです。

    1905年(明治38年)

    • 日露講和条約(ポーツマス条約)

      北緯50度以南の南樺太が日本領となる。
      ※日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、日本海海戦勝利後の1905年(明治38年)6月、アメリカに対し「中立の友誼的斡旋」を申し入れ、以後和平交渉が進みます。その結果、ロシアは満州および朝鮮からは撤兵し、日本に樺太の南部を割譲するものの、戦争賠償金には一切応じないというロシア側の最低条件で交渉は締結しました。

    1940年(昭和16年)

    • 日ソ中立条約調印

      互いの領土保全と不可侵を約束(5年間の摘用)
      ※相互不可侵および、一方が第三国の軍事行動の対象になった場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文と、加えて満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を謳った声明書から構成されていました。
      有効期間は5年であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長されるというものでした。

    1945年(昭和20年)

    • ヤルタ協定/2月11日

      ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三国首脳が、ソ連が対日参戦を行った場合の報償を定めます。
      樺太南部の返還、千島列島の引渡しなど(日本の参加してない協定であり法的効果はないとの公式見解)。
    • ソ連、日本に宣戦布告/8月8日

      日ソ中立条約は、5ヵ年の有効期限があるのに無視したものです。
    • ポツダム宣言受託/8月15日

    • ソ連軍による千島全島の占領/8月18日~9月3日

    1947年~1949年(昭和22~24年)

    • 当時四島には17,291人(3,123世帯)が居住していた。住民は小船で脱出、その他の人は拘留生活の後、強制的に退去させられます。

    1951年(昭和26年)

    • サンフランシスコ平和条約/9月8日

      ソ連は、調印せず。日本は、千島列島の権利、権限を放棄。

    1956年(昭和31年)

    • 鳩山首相訪ソ、日ソ共同宣言調印/10月9日

      この第9項に「日ソ平和条約締結後に歯舞群島、色丹島を返す。」とあります。

    1973年(昭和48年)

    • 田中首相訪ソ、日ソ共同声明(モスクワ署名)/10月10日

      北方領土問題は、平和条約の締結によって、処理されるべき問題であることを確認します。

    1991年(平成3年)

    • ゴルバチョフ大統領訪日、日ソ共同声明(東京署名)/4月18日

      歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の北方四島が平和条約において解決されるべき問題であることが文章上で明確され、加えて日ソ両国国民間の相互の広範囲で自由な往来を通じての善隣が平和的解決につながることなど確認されました。
    • 日ソ往復書簡/10月14日

      ビザ(査証)なし相互往来交流という新しい枠組み設定確認、同月29日政府閣議了承。

    1992年(平成4年)

    • 北方四島在住ロシア人とのビザなし交流始まる

      北方領土返還を進めるにあたり、相互交流の中からその雰囲気づくりをし、早期問題解決の一助とするものです。

    1993年(平成5年)

    • エリツィン大統領訪日、東京宣言/10月13日

      領土問題は、歴史的、法的事実に立って、「法と正義」を基礎として解決する問題と、交渉指針を示しました。

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