★2021修正15 歌川広重の江戸名所百景

タイムトラベル江戸東京

はじめに

  • サイト概要

    主催:株式会社バリューリソース・デザイン


    歌川広重の名所江戸百景

    1800年代に活躍した初代歌川広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年)~安政5年9月6日(1858年10月12日)がその晩年、江戸の風景を118枚の連作浮世絵で描きました。このラボサイトではその内の113作を描かれた地点にポイントをつくり、解説と浮世絵を案内しています。使用した古地図は万延年間の地図です。


    サイトの見どころ

    歌川広重の繊細なタッチをWEBならではの画像拡大で確かめてください。例えば『名所江戸百景大はしあたけの夕立』に見られる、墨の濃淡の線で表された雨と、その雨量を物語るように、広重の才能の高さをじっくり確かめてください。
    また浮世絵の景色の中に、現在の東京を思わせる痕跡を発見できればより面白いはずです。さらに浮世絵がどの方向からどこを描いたものかを考えてみるのも楽しいでしょう。


    関連するサイト

    東京古地図展

    *この「名所江戸百景」に用いたプラットフォーム
    https://www.tsunagaru-map.com/pf-tokyo/


    コンドルたちのつくった東京

    *広重が描いた江戸の町を大きく変えたお雇い外国人ジョサイア・コンドルとその弟子のラボ
    https://www.tsunagaru-map.com/tokyo-edo-artguide/


    すみだ北斎美術館

    *広重と同時代の浮世絵の巨人
    http:// https://hokusai-museum.jp/

    Webサイト閲覧上の留意点

    画面操作について

    地図データのダウンロード中(Please Wait画像の表示中)は、全ての操作をお控えください。ダウンロード中の操作は、ブラウザ停止やレイアウト崩れの原因となります。また、Wi-Fi環境等が良好でない場合は地図表示等に時間を要する場合があります。不具合時は、トップページに戻り、再読み込みやキャッシュクリアを行ってアクセスしてください。

    ポイントアイコンついて

    地図上のポイントアイコンは、そのコンテンツ内容によって区別されています。

    歴史的背景を持つ地点もしくは過去に起こった事柄、遺跡など
    現在についての記述や比較的新しい出来事など
    未来の出来事の記述や未来に完成する施設など
    地点が広範なものや道路・鉄道など距離のあるもの、また曖昧な地点

    地図の選択について

    ポイントしている地図は、ポイント地点の出来事の時期やその由来になるべく近い時代地図を選択しています。また、古い地図の描かれた範囲外がポイント地点の場合は、現代地図やその他の時代地図を選択している場合があります。

    地図上のポイントの著作権等について

    本サイトにおけるテキスト、画像等はそれぞれのコンテンツに注釈の無い限りはラボの主催者にあります。

  • マップについて

    本ラボ・サイトでは、下記地図の全部または一部を使用しています。

    • 江戸以前 1600年以前

      江戸関係文献/菊池山哉・五百年前の東京(批評社)/江戸の開府と土木技術(江戸遺跡研究会編/吉川弘文社)/江戸図屏風(諏訪春雄、内藤昌編/毎日新聞社)にランドサット情報を加味した想像図
      ※株式会社ユニバーサルデザイン総合研究所 制作
    • 江戸末期 1860年頃

      江戸図 萬延
      ※国際日本文化研究センター所蔵
    • 現代地図

      国土地理院、オープンストリートマップ(OSM)

      ※本ラボ・サイトでは、上記地図の全部または一部を使用しています。
      ※使用している旧版地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万分1迅速図及び1万分1 地形図を複製したものである。
      (承認番号 平27情複、 第457号)

    浮世絵の歴史

    初期

    1650年代(明暦年間)から1760年代(宝暦年間)。 初期の浮世絵は肉筆画と木版の単色刷りが主でした。その後、赤い顔料で着色した丹絵(たんえ)、紅絵(べにえ)が登場しますが、それらはすべて筆による彩色でした。さらに紅絵に緑色など二、三色を版摺りによって加えた紅摺絵(べにずりえ)が登場します。 その中で絵本や浮世草子に挿絵を描いた菱川師宣が登場し、浮世絵の始祖と呼ばれます。代表作として有名な『見返り美人図』は肉筆画です。

    中期

    1760年代(明和年間)から1800年代(文化年間)。 鮮やかな多色刷りの東錦絵(吾妻錦絵、江戸絵)が編み出され、浮世絵文化が開花します。その中で、下絵師、彫師、摺師の分業体制が整っていきます。 明和2年(1765年)に江戸の俳人を中心に絵暦が流行し、絵暦交換会が開かれるようになりますが、その需要に対し鈴木春信らが多色刷りによる東錦絵(吾妻錦絵)を編み出したことで、浮世絵文化は本格的開花期を迎えます。また安永期には、北尾重政が写実的な美人画で人気を博し、役者絵にも写実さが加わり勝川春章によってブロマイド的な似顔絵が描かれます。 さらに喜多川歌麿が登場し、繊細で上品で優雅なタッチで、美人画の大首絵を数多く手がけました。 その後寛政年間には、出版物に様々な規制がされますが、版元の蔦屋重三郎があの東洲斎写楽を見事に売り出します。また写楽とは異なる、歌川豊国による「役者舞台姿絵」のより美しく贔屓目に描かれた役者絵が絶大な人気を得ます。 そして歌川豊国の一番弟子、歌川国政の役者絵が技量が抜群と評価され、師をしのぐ勢いとなります。そしてその後に、豊国の弟子たちからなる浮世絵絵師最大派閥である歌川派が形成されていくことになります。

    後期

    1807年(文化4年)から安政5年(1858年)頃。 美人画、役者絵、武者絵のほか、旅行ブームに伴い名所絵(風景画)が発達します。 ここに登場したのが、勝川春章の門人、葛飾北斎です。北斎はその旅行ブームに伴い「富嶽三十六景」を手がけ、それに影響される形で歌川広重の「東海道五十三次」が刊行され、この2人によって浮世絵における名所絵が発達しました。 また他には、役者絵で歌川国貞が師匠歌川豊国の流れを受け継いで、力強い役者絵を手がけ、草双紙の伝奇ブームに伴い、歌川国芳によって武者絵が描かれるようになります。

    終期

    1859年(安政6年)から明治末頃。 幕末から明治にかけて、横浜絵、開化絵、錦絵新聞、皇室を描いた絵など、新しい時代の世情紹介に浮世絵が大きな役割を果たします。 この時期に活躍した浮世絵師には、歌川国芳の門人で「最後の浮世絵師」と呼ばれるようになる月岡芳年が繊細で写生を重視した絵柄で、数多くの歴史画、風俗画を手掛けました。 その芳年は、水野年方ら弟子には積極的に浮世絵以外の絵を学ばせたため、鏑木清方のように多くの門流が挿絵画家や、日本画家として大成し、浮世絵の伝統は他のジャンルへと受け継がれていった。また、歌川国芳にも学んでいる河鍋暁斎のような狩野派の画家から浮世絵を描くものも登場します。小林清親は西洋画をチャールズ・ワーグマンに学び、光線画と呼ばれる輪郭線を使わない西洋風の風景画を手がけます。 このように浮世絵は、新聞、写真など他のメディアに押されて衰退していく中で、絵師は挿絵画家や日本画家に転じ、浮世絵の伝統は他のジャンルへと受け継がれていきました。

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